だてにドラッカーではないですね。濃いです。

テイラー以前は、生産性の向上は技術と道具によってもたらされるものであり、労働については、より激しく働くか長く働くかしかなかった。
しかし、テイラーは肉体労働の生産性を向上させた。その手法は
1.仕事を個々の動作に分解する
2.各動作に要する時間を記録する
3.無駄な動作を探す
4.不可欠な動作を短い時間で簡単に行えるようにする
5.各動作に必要な道具を作りなおす
これは、成果が大きいだけでなく憎まれもしたので、いろいろな名前の手法が現れたが、日本のカイゼン含めて、この手法が使われている。

では知識労働の生産性はどうか。
まず、肉体労働において質は制約であるのに対し、知識労働においては本質である。教師の仕事は生徒の数で評価されるのではなく、生徒が本当に学んだかどうかによる。
しかし、仕事の質が何かを定義するのは難しい。なぜなら、そもそも仕事が何かを明らかにすることすら難しいから。

なお、知識労働者は知識労働にのみ携わるわけではない。知識労働と肉体労働の両方を行うのであり、そのような人達を、テクノロジストと呼ぶ。

・・・こんな話ですが、私たちもテクノロジストだったんですね。これは当たり前のようですけど、ちょっと新しい視点でした。
そして、肉体労働についてはテイラーの手法を適用できるわけです。適用しているわけです。

仕事が何かの定義が難しいのもまさにそのとおり。例として、看護師が、仕事を患者の看護とする人と医師の補助とする人がいるが、少なくともいわゆる「雑用」が生産性を阻害しているという点では一致して、それを取り除くことによりよい効果が出たという話があります。しかし、現実には、このレベルさえ、場面場面ですり替えられるわけです。すなわち、ある時は、患者の満足度を向上させろ、ある時は、医師の満足度を向上させろ、ある時は、雑用も自分の仕事を向上させるために必要な立派な仕事だ・・・。

結局、本質部分での生産性向上を見せてあげないと、雑用からすら逃れられないんですよね。そしてその生産性を質で測るとすると、結局は顧客満足度の向上だったりするから、テクノロジスト自身では見せてあげにくい、ということかなぁ。
・・・と一瞬逃げたくなりましたが、第一に、いきなり質で生産性を評価しようとする人は(良かれ悪しかれ)あまりいない。既存の枠組みに従えばよいと考えれば、いろいろ手はある。
第二に、そもそも、材料なくして提案は無理。あとの方でドラッカーも書いてますが、日本で提案制度が成功したのは、その導入がSQC確立の後だったからとのこと。もちろん、知識労働におけるSQCとは、というところは努力が必要ですが、諦めて嘆いても仕方がないということかと。


今日は天気がよかったので、無駄に下総中山まで出かけて、こんなことを考えていました。明日から仕事ダァー